こらむ


◇漓江に想う   ◇隣のばあちゃん   ◇仏教が教えてくれるもの   ◇中国研修記   ◇卒業して四半世紀   ◇佐久の方言   ◇1952年


         

        思い出の広州・桂林



 1978年3月28日から11日間にわたって「長野県日中友好訪中団」 (一行29名) は風光明媚な中国華南を訪問した。天下の絶景、桂林、漓江の舟下りは最高の思い出である。


  漓江に想う・・・私の見た中国


  中国を友好訪問して

 我々は、三月二十七日から四月六日迄、長野県日中友好訪中団の一員として、香港経由で広州桂林を訪問した。その中で私は医療関係についてふれてみたいと思う。桂林では、山水画を見ている様な風景を満喫し、その中で生活している農民の姿を見、そこで私は初めて中医との出会いが出来た。団員の中で腹部、腰部から下肢にかけて痛みを訴える団員が、ホテルへ中医の往診を依頼し身近に治療を見ることが出来た。中医は五十才を過ぎた女性で、彼女は十三才の頃から中医学を父親から学んだとの事であった。別に中医学院を卒業した訳ではないとの事で家では代々中医を受け継いで来たとの事でした。彼女は病院で三十余年も仕事を行い針麻酔、耳鍼なども行っているとの事であった。団員の治療法は、鍼を用いるのではなく、五mm程度の円柱の磁石を用い、それを各経穴におき、電気を通電する方法であった。取穴は足の三陰交、足の三里、そして腰部の三焦兪であった。通電時間は三十分程度であった。彼女は我々の質問に誠意をもって答えてくれたが、通訳の関係上、不明な点があったがどうして、この経穴を選んだか詳しく理論的に説明してくれた。団員の痛みは軽快した。広州では、広州第一病院を訪問した。この病院はベッド数七五〇、従業員一三〇〇人、外来患者は一日三〇〇〇人と聞いた。
病院には内科、外科、産婦人科、小児科、五管科(五管科とは、日本の眼科、耳鼻科などを含めたもの)、神経科(脳外科)などの総合病院であった。建物は古く解放前からあった物を解放後総合病院として生まれ代えた物である。又この病院には副団長の山口先生が入院されていた。我々はここで外科手術を二つ見学する事が出来た。一つは甲状腺摘出術であり、もう一つは心臓弁膜症の手術であった。それも鍼麻酔だけで行ったものである。まず患者の合谷と三陽絡に鍼をさし電麻器で二十分程度おき、女医が胸部にメスを入れた。出血は少なく患者は目をパチリし、まもなく肥大した心臓が見えた。団員は思わずつばを飲み込み見入っていた。心臓手術は一時間程度で終わった。甲状腺手術の患者は手術が終わった後、我々に手を振り病室に帰っていった。その後、我々は副院長と外科部長との話し合いを行った。鍼麻酔はどの程度使われているかとの質問に二十五%から三十%位であり、現在研究中との答えであった。又前投薬は一切使わないとの事であった。
中医薬での麻酔も研究中とも話してくれた。私が医師との話し合いの中で、常に彼らは中医に学ばなければならないと繰り返していた。そして中国独自の医療を作り上げるために奮闘している姿が見られた。私は日ごろ東洋医学と西洋医学との結合は非常に困難な問題だと思っているのだが。




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   隣のばあちゃん


私の家の隣に80歳を越えるばあちゃんが住んでいます、
 ばあちゃんは朝、五時頃に起き畑仕事をして、帰ってくるこのころやっと隣近所の、おかってから
庖丁のかろやかな音が聞こえてくる。 
小鳥がさいずり、さわやかな一日が始まる。

ばあちゃんは、やせ型、腰は曲がらず 歩き方もしっかりしている、そして、頭の方は、これまたピカイチである、
新聞、テレビからの情報で、政治の話をさせると評論家を負かすほどである。
ばあちゃんの口癖は、国民は、馬鹿すぎるもっと自分の生活を考えれば分かる事なのにと、顏をくしゃくしゃにしていう。
そして、こんなばあさんが頭にきてもしょうがねえ、と笑う
我が家でも、ネコの額ほどの畑がある、そこにうねを作り、なす、キュウリ、トマト、などをうねの上に植えた、それを見てばあちゃんは、苗は、うねの下に植えるもんだと言う。
畑の中の肥料は、雨などで土の下に行くだから、そおいわれれば 納得、また、ごみを焼却炉で燃やすと煙が沢山出るそんな時ばあちゃんは、教えてくれる、ごみを詰込んでから上から火をつければ煙は出ない。

時々、だいこん、ジャガイモ、キュウリなどを、持ってきてくれる。

 隣の婆ちゃん、その2、
婆ちゃんは口癖のように「有難うと、ごめんなさい」が言えない物はだめだ、どんなにお金があっても、どんなに偉い人でもこの言葉が言えなければ大したもんじゃない
頭をどんなに下げても損はしない。

 いま「1999年」
我が家は昨年末より、家を新築しているため現在借家住まいである、そのため毎日、新築現場に行く事は出来ない、ここで大活躍をしてくれているのが、隣の婆ちゃんである、大工さんと話をし、代理の我が家の監督の役目をしてくれている。
私が行くと庭のここには倉庫を置き、木をここに植えると良くなるとアドバイスをくれる、そして言う俺の家じゃあねえけどなー、でも、こおして考えていると楽しくなるからなー。




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        仏教が教えてくれるもの


人間が、生活をしていく中で、良い事もあれば、悪い事もある。
楽しい事、悲しい事、いろいろある。

こうした、心の移り変わり、そして、人間の、欲望が絡み合い、さまざまな
人間もよおが、見られる。

この状態を、六つの世界が、あると考えている。
餓鬼の世界、畜生の世界、修羅場の世界、人間の世界、天上の世界、地獄の世界、これが、人生の中でくりかえし、回っていると考えています、いわゆる、輪廻のことです。

 1、餓鬼の世界とは、
幼児期のころは、お腹が空けば、食べ物を、欲しがり足りなければ、なき騒ぐ、我慢と言うものがない。

2、畜生の世界、
人に負けたくない、気持ち、くやしさ、こん畜生と、歯をくいしばり
生きる人生。

 3、修羅場の世界とは、
人生において甘い、酸っぱい、憎しみ、くやしさ、あらゆる場面に
遭遇し、くぐりぬけてきた、人間模様



 死には四つの考え方がある。
1、肉体的 死
2、社会的 死
3、文化的 死
4、心理的 死




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        中国研修記



 昭和六十三年四月十二日北京。天気晴れ、真夏を思わせる暑い日である。空港ロビーへ出迎えにくるはずの、中日友好医院の人を探したが見当たらない。しかたなくタクシーで病院へ向かった。後で聞いた話だが、外事課の係が、五月十二日と勘違いしたとの事。中国ってなんてのんびりしたところだろう。
 私の宿舎は、リハビリ病棟の一室で、バス・トイレ付きしかもラジオ・テレビまで用意された部屋である。さっそく荷物の整理をし、ジャスミン茶を飲んでみた。「ん」やっと中国へ来た。と、そんな感じがした。夕食後、ナースセンターへ行き看護婦さんに、中国語で話しかけた(それほど喋れないのに、ただ、図々しさだけで)。それがそれが、なんと話が通じたのである。私の覚えた数少ない言葉をすべて並べて話しかけたのだが。しかし、看護婦さんと親しくなれた。同じリハビリ病棟に中医眼科入院中の五人の日本人がいることを聞き、すぐに訪ね患者さんと
話すことができた。内心ほっとした。異国に於いて、日本語で話ができたからである。
 また、翌日からの鍼灸科の研修で、ここにも日本語の上手な医者がいて、私の担当になってくれた。この先生は、日本に四ヶ月研修に来たことがあるとの事(これまた良かった)。外来は、一日六人の中医で三十〜四十人の患者を治療している。午前中は、八時から十一時頃まで長くても十一時半までである。昼休みは午後二時まで。午後の患者は五〜六人のみである。鍼灸科病棟のベッド数は十二ベッドあり、この入院患者を三人で治療するのでゆっくりと治療ができる。日本では考えられない。言い忘れたがこの病院のベッド数は千三百あり、職員は二千人を越すとの事、非常に驚きである。十四階建ての病棟を中心に並んでいる。佐久病院の三〜四倍はある。外来患者さんは、脳卒中(片麻痺)、腰痛、耳鳴り、眼科疾患(視神経萎縮)などあらゆる病気の人がくる。日本と違い診断も両手の脉と舌で病気を診る。そしてその人の体質「証」を取るのである。私も外来と病棟の患者さんの脉を毎日とっては、先生に聞き、指先がおかしくなりそうであった。中国での阿是穴(ツボ)を多く教えてもらった。また、日本からの患者さんは、眼科への入院であり視力が0.01〜0.4くらい。一人は全盲であった。
 私は一日の研修が終わると日本人患者さんとビールを飲んだり、北京市内へ食事に出かけた。道路は広いが以前よりも車の数が増えたのには驚いた。日本車が目につく。クラウン、グロリアの横を馬車がゆっくり走り、そして自転車。これがまた多い。歩道には信じられないくらいの人また人。目が回りそうである。食堂も三人連れの家族がこれまたあふれている。イス取りゲームをしているみたいである。中国人は、仕事や一般の生活はのんびりしているのに、食事やバス、地下鉄乗り場などは目茶苦茶の混み様である。日本のラッシュ時の山手線以上である。
午後五時頃からぶらぶらと散歩する人が多く午後十時を過ぎても人影が多い。これまた不思議である。私は鍼灸科の先生の家庭で何回か食事をした。一般の家庭は2DKが普通で、電化製品はテレビがあれば良い方である。先生の家は、日本製の洗濯機、冷蔵庫、ステレオがあった。中国としては贅沢である。二十歳のメイドさんもいた。
 食事や子供の世話は皆メイドさんの仕事だとの事。メイドさんが作るギョウザがこれまた美味しかった。ちょっと日本では味わえない美味しさである。ラーメンですと言われ、見るとスープが無い麺が皿の上にあるだけである。食べ方は肉や野菜を盛り付けて食べるのである。しかしこれはあまりうまくなかった。
 日曜日は、万里の長城や天安門、頤和園などへでかけたが、前回北京市内はほとんど観光巡りしていたので今回はあまり観光には出かけず、食べ歩きが多かった。その中の一つ傑作な事があった。私が帰国する前日、中国人の友達三人と日本人患者三人と私で夕食会を北京のホテルのレストランで行った。そこでフランス料理とワインを注文し、ご機嫌で話も弾み皆でくつろいでいた。そしてお金を払う時になった。チケットに二千元とある。全員が驚いた。中国では医者の一ヶ月の給料が百元から百五十元であり、一食の食費は、普通一元から十元であるからである。日本料理を食べても百元以内で間に合うのに、美味しかった料理もワインの酔いもいっぺんにさめてしまった。(一元は日本円で三十五〜四十円)私も財布に千元くらいはあったが・・・、慌ててみんなのお金を集めた。何とか支払う事ができた。中国にもこんなに高級な(値段が)レストランがあるとは思わなかった。病院に帰りビールを飲みながらみんなで笑いころげた。自分達にはフランス料理は高級すぎた。
 最後に中国研修を通じ中国人一人一人の優しさ、親切さをしみじみ感じさせられた。同じ顏で言葉だけの違う民族。何千年という歴史のある国。これからも中国と日本の友好を深め、できれば、太陽会のメンバーも、車イスで中国を訪問してほしい。




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       卒業して四半世紀


 私は、1972年に長野盲学校を卒業して佐久総合病院に就職しました。当時はリハビリテーションの仕事も、はり・灸・マッサージの資格があれば医療点数がとれました。その後理学療法士が増え法律が変わり、我々の免許では、病院で働くことが出来なくなってきました。
 私は、就職当時から整形外科の先生と事故で脱臼骨折の為、腰痛、下肢痛、痺れを伴い歩行困難な患者さんに、仕事が終わってから病棟へ行き毎日はり治療を続けました。(小須田その子さんのお父さんです)三ヶ月の治療で、痛みもほとんど無くなり歩ける様になり退院できました。
この事がきっかけでリハビリの仕事のほかに針の仕事も増えてきました。
 26歳の時中国に行く機会を得ました。香港から広州へ入りました。初めての中国で、心はときめいていました。
 広州第一病院で針麻酔を見た時はおどろきでした。目の前で心臓の手術を見たからです。患者さんが、医者と話をしながら手術をしていたからです。
針の力をまざまざと知らされました。自分にとって、針、灸、を一生の仕事にしようと思いました。
 その後、北京を中心に針の勉強に行きました。長い時は三ヶ月ほど、短ければ一、二週間でした。視覚障害者が一人で中国に行くことは、勇気が必要でした。
 現在は、佐久東洋医学研究所で、はり、灸、気功、などの仕事をしています。ベットは、12台あり、新灸師、六名、事務二名で、一日の患者さんは40から60人ていどです。
 その他に、東洋医学の公演を各地で行ったり、公民館で気功教室を開いたり、長野のカルチャーセンターでも教室を、持っています。新聞、雑誌などにも、つぼ療法、家庭で出来るつぼ療法、気功健康法などを載せています。
 長野の卒業生は、私と伊藤先生だけです。ほかのスタッフは皆、晴眼者です、職場では皆仲良く仕事をしています。
 又、仕事のほかに、音楽が好きで、混成四部合唱や、カントリー、フォルクローレなどのグループを作っています。長野盲学校でも、朝日うたう会を作り信濃のうたごえ祭典や日本のたごえ祭典に参加しました。
 学生時代の思い出は、沢山あります、生徒会活動、菊花祭、夜おそくまで、会議をしたり、演劇、吹奏楽を練習しました。
 寮生活では、いずみ会の活動も楽しい思い出です、
皆さんも、いろいろな事に挑戦してください。
 私は、学校では、勉強はしませんでした。もっとやっておけばよかったと、今になってそう思います。
中国のことわざに、学ぼうとした時に遅いことはない、とあります。興味を持って前向きに、何事にもプラス発想で、肩の力を抜いて、笑顔を忘れずに。





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    佐久の方言


私は仕事上年配の方と接する機会が多いのでコミニケーションをとるために心がけて『方言』を使うようにしています。でもときどき、お婆さんの使う方言が解らないこともあります。たとえば、
  1. 「きょうこつ(強骨)ねー」 この漢字が正しいかどうかわかりませんが意味は我慢ができないとか根性がないとかそんな意味です。患者さんが痛みに耐えられない時「おれはきょうこつねえからなー」と言います。

  2. 「そべーてる」 これは、ふざける、あまえる、の意味でこんなふうに使います。「そべーてねで早く勉強しろ」

  3. 「いかず」 これは、どこかに行こうとするときに使います。
    否定のことばではありません。話によると武田信玄が戦の時に敵にきずかれないようにするために使ったのが始まりと言われています。「皆で遊びに行かず。」などと使います。

  4. ,こてーさんねえ
    この言葉は、気分が良い、心地よいなどの意味で使います。
    温泉に行き、お風呂に入り顔を洗い、【ため息をし、温泉は、こてーさんねえー、】」こんな感じです。

  5. そうどこじゃねー
    この意味は、こもっとも、そのとおりです、
    田んぼの仕事手、伝ってくれやー、
    そうどこじゃねー

  6. ももっけえ
    木になる桃では、有りません
    くすぐったい時に使います、
    わきの下を人に触られたときなど、ももっけえじゃあねえか、





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       1952年


 私は1952年に長野県佐久市に生まれた,北側に浅間山が絵に描いたように美しく見え又、夜になると百万ドルとはいえないが一万ドルぐらいの夜景が見えるところ、言うまでもなく片田舎である、田畑はだんだん畑で面積も小さい水のみ百姓みたいな部落で現金収入と言ったら、蚕と少しばかりのお米を売り生活をしていた、お金は、無かったが家庭の暖かさはあった。
私は、小さい頃から目が悪くメガネをかけていたが、次第に黒板の字が見えず、勉強が嫌いになって来た。

当時、1年生から三年生まで受け持ってくれた先生は、とてもやさしく、見守ってくれた、とても美人の先生であった。まだ入学して間もない頃、身体検査が行われたあの頃は、お腹を壊さぬようにと母親が金
太郎けている、ひし形の腹あてを学校に着けてきた事を忘れていた幼心に恥ずかしさが有り、おもわず教室を飛び出した、
先生も友達も、追いかけてきた、、困って川に逃げ込み皆に向かい水をかけた、これがせいいっぱいの抵抗であった、いろいろと先生には迷惑をかけた。
四年生からの先生は、怖い男の先生でした、いつも竹の棒で、頭をたたかれた、いつも怒られるのは男子が多かった、廊下に立たされたり、教室の後ろに座らされたり、さんざんな三年間であった。

そのかわり家に帰ると野原を駆け巡っていた。又、悪戯も沢山した
佐久地方は水田に鯉や鮒を飼っていた田圃に入り鮒を捕まえたり、池で飼っている鯉を釣り上げたりやりたいほうだいで箸にも棒にもかからないと親から言われた。
 家は、両親、t兄、姉、妹、そして私、今考えると我侭
に育ったと反省している。
親戚の家に行き、従兄妹と、玩具を取り合ってほとんど取り上げた事を憶えている。
 兄も姉も私を可愛がってくれた、そんな兄が中学二年の夏、夏休みに入って三日目、めずらしく水泳に行くと言って家を出た、兄はこのまま二度と家に戻らなかった。
当事はまだ、千曲川で泳いでいた、まじめな兄は学校で決められていた場所で泳いでいたが、川の深みにはまってしまったのだ。
後で深さを計って見ると四メーターを越えていたその上渦をまいて水が吸い込まれているところでした。



中学は地元の野沢中学へ入学が決まっていたが長野盲学校へ進んだクラスは8人誠に少ない、小学校のクラスは53人だったため不思議に感じた、先生が黒板に書く字がこれまた大きい、だから授業は徐々に楽しくなってきた。
生活は学校の傍に宿舎があり小学校1年から専攻科までが一緒に暮らしていた、私は親元を離れるのが初めてだった、寮の部屋は12畳あまりで六人が座れる炬燵があり、押し入れと壁側に勉強台がそなえつけられてあった、食事は200人が入れるほどの食堂と娯楽室が有り三食を、ここですませた。
寮生活は、朝ラジオ体操で始まり夜は10時に消燈で床に着くと言った規則正しい生活が続いたが、専攻科になる頃は消燈が過ぎる頃から酒盛りをする機会が増えてきた、時によっては市内に繰り出し寮に帰ってくる途中田圃に入り衣服が水艸で泥だらけこんなことも有りました。
こんなことばかりをやっていたわけでは有りません、音楽に間しては、優れた才能を持った人が多かった、私は音楽の授業は嫌いであったが寮の部屋でギターやクラリネットなどを教えてもらった
ギターはあの頃、はやっていた曲、禁じられた遊びを毎日弾いていた、
又、フォークソングが日本に入ってきた頃で和音コードも覚えることが出来た、しかしギターを弾いていてコードをまちがえるとすぐに友達から、そこは違うと声がかかる、お陰で、コード転回を理解する事が出来た。
他に、スポーツでは、盲人野球、これはハンドボールで使用するボールをピッチャーが地面を転がしバットで打つという方法で行い、ピッチャーは全盲ないしはアイマスクをしキャッチャーが手をたたきその音を聞きボールを転がすわけである、なれないと打つ事は難しい、カーブ、スローボールなど球種は多い。
練習は毎日あったが私は時々、サボッ田事もあった、又、北信越の大会などで、長野盲学校は何回か優勝しじた。

 生徒会活動では取り組みは面白かった、演劇、吹奏楽、展示、実行委員会など当日が来るまで夜おそくまでやった想い出が有る。

学校生活は、生き生きとした日々が続いたが18歳の冬、この頃は,
指圧、あんま、マッサージの資格試験が目前であったため、毎日勉強に
明け暮れていた。
 自分でも信じられないほど勉強をした、試験に落ちるのがいやだったからである。
そんなある日の朝目が覚めていつものようにラジオ体操をし寮の掃除をしていたら目の前に水玉みたいな物が有る事に気がついた。
頭を振ってみるとその水玉も動く、そしてそれが次第に大きくなってきた、私は心配になって、眼科へ行った眼底を診て先生はこれは網膜剥離だと言った、すぐに手術だ、目の前が真っ暗になったもし目が見えなくなったらどうしよう、自然と涙があふれ出て来た。
翌日、長野日赤病院に入院した、本館の三階の六人部屋に入った
病棟は古く消毒の匂いが鼻をついた、手術は、局所麻酔で行い目の前にメスの動くのが見えたり、極めつけは、最後の絲で縫うとき眼球がもっていかれる用な感じを今でもよく覚えている。




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佐久東洋医学研究所   
堀込雅彦